■ 永継夜(ながつや) / ノーヴェンバー ——ありえない。  何がありえないかって、こんな事は絶対にありえないと思っていたんだ。  ……いや、待てよ。  俺がありえないんだと思い込んでいただけで、いざ実際に起こってしまえばこんなモノなのかもしれないな。  ……要は、簡単だ。  落ち着いて。物事をよく見て。  それから、考える。  ……考える。  …………考える。  ……………………考える。 「みんな、よろしくねー」  元気な——もっと端的に言えば、能天気な声。  …………………………………………考える。 「先生の名前は、アルクェイド・ブリュンスタッドと言います。  ちょっと長い名前なので、アルクェイド先生、で良いですからねー」  それでも長いぞ——と、思わず声を大にして突っ込こみたい衝動を辛うじて抑えた。  さて。  …………考え……………………られるかっ!?  ——というか、考えるまでも無い。  起こっていることは現実で、それは留まる事無く俺の視界の中で容赦なく展開されてしまっている。  周囲の嬌声はただの雑音にしか思えなかった。  まるで、俺と教壇の所にいる白い人影しかその場にいないかのような錯覚。  よく、漫画なんかである演出だ。二人の人物にだけスポットが当たり、その他大勢がアミカケになると言う、アレだ。  ……あれほど、学校には来るなと言っておいたのに。  いや……そういえば。  最近、あんまり構ってやってなかったな。  夜な夜な俺の部屋に忍び込んできては朝まで居座って喋るから、他の時間まで一緒にいるのはどうかと思っていたんだが……あいつにはそれでも物足りなかったらしい。 「ちょっと志貴。なにボーっとしてるのよ?」 「やかましい。考え事をしてるんだ」  …………あ。まずい。  あんまりにもいつもの呼び掛け方だったから、いつも通りに返しちまった……!  案の定——ざわざわと、教室中がどよめく。  ……突如として現れた白い美女(見た目)が俺の事をいきなり名前で呼び捨てにした事に対してか——或いは、学校内では比較的品行方正で通っている俺が、教師に対してあるまじき言葉を返してしまった事に対してか。  結論。  ……両方だ。  特に有彦は露骨だった。  あんぐりと口を開き、目を見開いている。  ヤツとは小学校からの付き合いだが、あいつのあんな表情は終ぞ拝んだ事が無い。 「せんせー、何で遠野君のことをそう言う風に呼ぶんですかー?」  誰だ、そんな質問をするやつは!?  …………ええい、ンな事はもうどうでもいい。  あいつの笑顔の方がよっぽど不吉だ。  いつもなら見惚れてしまうだろうあいつの無邪気な笑顔が、今は酷く邪悪に見える。  ……あいつが吸血鬼だという事に今、初めて納得が行ったような気がした。 「何でっていわれても色々あって……そうだなー。あなたたち風に言うと、恋人同士だから——」 「俺とアルクェイドさんは遠縁の親戚なんだよ!」  にこやかにとんでもない事を口走るアルクェイドの台詞を、ありったけの声量で打ち消す。  さん付けで呼ばれたアルクェイドが目を見開いていたりするが、そっちのフォローは後だ。 「……う」  いきなり声を張り上げたせいで、軽い眩暈がするが無視する。  クラスの連中が訝しげな視線を投げ掛けてきたりもするが、気にしない。気にしていたらこの状況は切り抜けられない。  とにかく俺はこれ以上、事態が悪化する事は避けたかった。  ……例え一時、この場で恥をかく事になっても。  興味津々で質問してくるクラスの連中に、俺とアルクェイドは遠縁の親戚である事、また少し前までは良く会っていて、呼び方もそれで慣れてしまっているから——というでっちあげの経緯を説明する羽目になってしまった。  ……もちろん、アルクェイドが余計な事を口走らないよう、視線で釘を刺すのも忘れなかった。  昼休み。  俺はいつものとおり——というか、最近恒例になりつつある中庭での昼食だ。  まだ終わりじゃない。……あと、半分。  ……………………疲れた。  ……俺はひょっとして、一日が終わる頃には過労死してるんじゃないだろうか?  考えて、止めた。  余りにリアル過ぎて、怖い。 「遠野君……これ、どーいう事ですか」  シエル先輩の言いたい事はよーく解ってる。 「兄さん……」  秋葉が声を押し殺したい気分も、とりあえずは理解する方向で何とか。 「志貴って、小食なんだねー」  白い悪魔——子悪魔と表現できるほど可愛げのあるモンじゃないそいつは、満面の笑みで何の問題も無いかのように微笑んでいる。 「——はぁ」  知らず、溜息が漏れる。  恐らく、周囲の奴らはこう思うだろう。  『こんな美女に囲まれて、何を溜息なんぞ吐いているんだ』、と。  ——ああ、確かにそうだろう。  状況だけ見れば確かに男として喜ぶべきものだ。  ……状況だけなら。  だが、人一人を容易に消し飛ばせるだけの力を持った女性が三人、紙一重の均衡で位置している最中に居れば、例えどんなに無神経なヤツだって逃げ出したくなる。  ちなみに、有彦のヤツはとっくに逃げている。  …………そんな状況から逃避するために、俺は学食で購入してきたパンを齧る。  何の解決にもなっていないが、食べる、と言う行為に没頭している間は……少なくとも、他に口を開く事を要請されないからだ。  ちなみに——味はさっぱりわからない。  味覚がおかしいんじゃなくて、緊張とある種恐怖のお陰で感覚が半分麻痺している。 「だいたいですね……なんであなたが人間のテリトリーでも最たるもの——学校なんかに来ているんですか。夜ならまだしも、今は昼ですよ? あなた"達"が最も嫌う場所のはずでしょう」  仏頂面でコメントするシエル先輩の顔は苦い。  恐らく、そういった吸血鬼に対する一般常識的な定義が当てはまらない相手である事を知りながら、先輩はそれでも言わずにいられないのだ。 「わたしはそんなに嫌いじゃないけど。それに、ここには志貴だって居るしね」  しれっと言ってのけるアルクェイド。 「…………」  秋葉の視線が刺そのものに感じられるほど刺さるが、とりあえず——今の時点では甘んじて受けるしかない。 「遠野君は、何とも思わないんですか」  先輩の、聞くだけで竦んでしまうような感情のこもらない声は何度か聞いたが……これは格別だ。  ただ、どう思うか——その事に関しては、不思議と、不快に思う部分が少ない。  そりゃ、いきなり学校に乱入してきてしかも教師だったり、呼び捨てにされて周囲の好奇の視線に晒されたのはむかついたけど。  ただ——  アルクェイドが傍にいてくれる、と言う点に関しては、喜んでいる自分がいるのを自覚してる。  出し抜けに、俺の日常の中に現れたあいつの無邪気な微笑みに、ほんの一瞬でも見惚れていたのは……紛れも無い事実だから。 「そりゃ、思うところなんて数え切れないほどありますよ。でも——」 「でも、何です?」  先輩の詰問はいつも以上に厳しい。  秋葉の視線の援護射撃も手伝って、俺は上手く言葉を繋げられない。 「でも……何ていうか。アルクェイドは基本的にはいいヤツで——別に、傍にいてくれても悪い気はしないって言うか、なんと言うか……」  俺の言葉を受けて、俄然機嫌が良くなるアルクェイド。 「へへー」  掛け値ナシの、何の邪気も含まない笑顔。  こいつのこういう反応は何度か見ているのに、それでも見惚れてしまうのは……なんでだろう? 「——」 「——」  ……それとは対照的に、残り二人の顔は思いきり怖かったりするんですが。 「ほらほら、志貴公認なんだから、シエルや妹が口出しする事じゃないじゃない」  まるで鬼の首でも取ったように、アルクェイドが得意げに口を開く。 「遠野君。本気で言ってるんですか?」 「兄さん……わたしはいつからこの方に『妹』、などと呼ばれなければならなくなったのですか?」  二人はアルクェイドの言葉をシカトして、俺に聞いてきた。  はっきり言って、アルクェイドの行動に関しては俺の管轄外だと思うんだが——  二人の表情を見る限り、それで納得してもらえるかどうかは甚だ疑問だ。  仕方なく、俺はできれば開きたくない口を開いて二人の説得を始める事にする。 「まず、シエル先輩の質問だね。本気かって言われれば……そうとしか言いようがないよ。  気概や覚悟の程度云々じゃなくて、俺は事実を言っただけです」  正直に、何の装飾も媚びも付け加えずに説明する。  ここで下手に言い訳じみた事を言うと、後で取り返しのつかない事になるのは目に見えてる。 「——で、こいつが秋葉のことを『妹』って呼ぶ事に関しては、俺も知らない。その辺は本人と直接交渉してくれ」  少し投げやりに聞こえてしまっただろうか?  事実、秋葉の視線は鋭い——とは言っても、さっきから俺の顔面を貫通して校舎に突き刺さろうかという鋭さは相変わらずの事だけど。  ……シエル先輩は辛うじて納得してくれているのか、非難じみた視線は変わらないけど、言葉で追求してくるような事は無いみたいだ。 「……わかりました。では、お聞きします。  アルクェイドさん、と仰いましたね? 何故、私のことを『妹』などと呼ぶのか……お答え頂けますか?」  秋葉の言葉はあからさまに刺々しい。  威圧できるとでも思っているのか。だが甘いぞ、秋葉。 「簡単じゃない。あなたは志貴の妹でしょ?」  ほぼ予想通り——アルクェイドは秋葉の厳しい口調など何も堪えていない。  それがまた不愉快なのか、秋葉の機嫌は斜めどころじゃない。どころじゃないばかりか……あと一押しで縦になってしまうかも知れない。  それはイコール、家に帰った後の俺に対する態度になる訳だが……俺にできる事は何も無い。  …………無力だ。我ながら。  この「眼」も、この事態に対しては全くの無力。  そういう意味では、なんか普通の人間に戻れているような気分さえする。  ……このプラスな気分だけを家に持って帰ってゆっくりとくつろぎたいと言うのは——贅沢なのでしょうか? 「理由になっていません。確かに私は兄さん——遠野志貴の妹です。ですが、あなたの妹では無いでしょう」  ……まぁ、確かに。  その辺は秋葉の言い分通りだよな。 「えー。だって、わたしが志貴と結婚したら妹は妹になるじゃない」  ——ぶっ。 「おおお、おまえは……!」  また脈絡も無くなんつー事を言うんだ、こいつはっ!?  さすがに状況を流してきた俺も納得がいかない。 「おい、んな事いつ決まったんだ、い——」 「何をぬかしてやがるんですかあなたはっっ!!」  突然の『爆音』に、キーンキーンキーン……と、耳鳴りがする。  近くにいた生徒や周囲の教室の生徒が何事かとこちらを見やるが、張り詰めた雰囲気が伝わるのだろうか、皆一様にすぐ見てみぬ振りをしている…………ように見える。少なくとも、俺には。  そこまで周囲の状況を見まわしてようやく、俺は何が起こったのか理解した。  先輩の怒声が俺の声をあっさりと掻き消したのだ。  はっきり言って心臓に悪い。……よく、こんな大きな声がいきなり出せるよなぁ、先輩。 「……冗談も大概にしていただきたいものですね、先生」  先生、という部分にアクセントを付けて、秋葉。  ご機嫌どーの以前に、声に殺気がこもってます。  ……帰りたい。っつーか逃げたい。 「何をって言われても、言葉どおりだけど。それ以上でも無いし、それ以下の意味だって無いよ」  またもや、しれっと言ってのけるアルクェイド。  二人が怒っている理由を理解していないのか。  あるいは全て察した上でこの態度なのか。  …………後者だ。間違いない。  アルクェイドは確かに他人の感情の機微に疎いところがある。だが、シエル先輩や秋葉の怒る理由は俺にだって見当がつくくらいなんだ。  幾らなんでも、その程度のことに気づかないアルクェイドじゃない。 「冗談も休み休み言って欲しいものですね、アルクェイド。あなたが普通の、人間としての婚姻などできるはずが無いでしょう」 「それ以前に……。兄さんには遠野家の長男として相応しいお相手と一緒になっていただきますから。あなたのような冗談じみた方など論外です」 「あら……よく囀るじゃない、シエルに妹」  不適な表情で微笑むアルクェイド。  ……いや、まずい。  何がまずいかって、先輩は周囲のことなどお構いナシにアルクェイドが人間じゃないような事を言っちゃってるし、秋葉は秋葉でまたとんでもない事をまるで決定事項のように言っている。 「三人とも、もうちょっと穏便に——」 「遠野君は黙っててください」 「兄さん、口出しは無用に願います」 「志貴はそこで休んでて」 「…………はい」  ……そうさ、所詮俺の地位なんてこんなものさ。  幾ら人外な「眼」を持ってるからって、交渉ごとや折衝が上手くなるわけじゃ無し。  いっそ三人の間の険悪な雰囲気を「殺す」事ができれば……なんて思うが、そんな事できやしない。  まぁよしんば出来たところで、同時に俺も廃人確定だろうけど。  先生。……先生は俺に『他の人より人生の落とし穴を避けられる力を持っているんだから』って、言ってくれましたよね?  ……やっぱり、避けられずにある程度の深さまで落ちてしまった時点でもう、ダメなんでしょうか? 「それはダメだと思いますよー」  開口一番、居間で俺の例え話を聞いてくれた琥珀さんは、俺のそんな問いをバッサリと一刀両断してくれた。  「う゛。……やっぱり、そー思いますか琥珀さん」 「はい。その『落とし穴』とか言うのに落っこちちゃった時点で、その方の進むべき道はある程度決まっちゃってると思います」 「いや、でも……穴の途中で引っ掛かってて、這い上がって行けるという可能性も……」 「無理だと思いますよ。這い上がったとしても『落とし穴の主』に蹴落とされちゃうでしょうから」 「……なんですか、その『落とし穴の主』って」 「いえいえ、単なる喩えですよー」  笑顔で締め括ると、琥珀さんはお茶の用意をしますからと俺に断って、台所に向かう。  ……琥珀さんの言う通りかも知れないな。  いや、何となくわかっていた事だけど。  その『落とし穴に落ちた奴』が実は俺だって言ったら、琥珀さん……何て言うだろうか?  ……あー、なんか、なんとなく予想できるな。  いつも通り、見ていて和むような温かい笑顔を浮かべて。  そして…… ——頑張りましょうね、志貴さん。 「——とか、言ってくれるんだろうなぁ」  うーむ……それはそれでちょっと嬉しいかもしんない。 「何を頑張るのですか、志貴さま」 「うわあっ!? …………ひ、翡翠?」  ——め、メチャクチャびっくりした……。 「…………」  翡翠はいつもを変わらず、俺の傍に控えるように佇んでいる。  …………。どうやら、俺は知らないうちに自分の思考を声に出してしまっていたらしい。  冷静に状況を観察してから……なんか、凄く恥ずかしくなってしまった。  ……疲れてんのかなー、俺。  妄想、とまで卑猥なものじゃなかったけど。思ったことを無意識に口にしてるってのは——  ……やばい。重傷かも知れん。 「——志貴さま?」 「ん、なに?」 「……差し出がましい事かも知れませんが……志貴さま、お疲れではありませんか?」 「あれ……そー見える?」  そんなに無理をしているつもりは無いんだけど。  ただ……翡翠の前では多少無理をしてでも平静を装ったりする時もある。  それは何故かって言うと——翡翠は俺の具合がちょっとでも悪そうに見えると、それこそ俺が今にも倒れてしまいそうだとでも言わんばかりにあれこれと世話を焼こうとしてくるからだ。  その行為自体は結構嬉しかったりするのだが、その時の翡翠は決まって悲しそうな……泣きそうな顔をしている。  そんな翡翠の顔は見たくなくて——俺は翡翠の前では無理を通す事にしている。  もっとも、最近は体調も悪くなくて、別にキツイ状況って訳じゃないし。 「お言葉ですが……見えます。……学校で何か?」  翡翠、鋭い。——っていうか、家を除けば後は学校ぐらいしかないのか。 「ああ、まぁ……色々とね」  実際にはある一事項のみなのだが、あまり詳しく説明しても翡翠の気苦労が増すだけだ。  俺の気苦労が減るわけでもないし。 「……お力になれず、申し訳ありません」 「翡翠が謝る必要なんて、どこにも無いよ」  翡翠は何かにつけて自分を非難する傾向がある。  学校の事でなんか、それこそ翡翠の感知する所ではないと言うのに。  ただでさえ、屋敷の管理から雑事まで押し付けてしまっている上に、そこまで心配されてたら割に合わないじゃないか。 「ですが——」 「だったら、心配しないで。それにさ、翡翠がそんな顔をしている方がよっぽど心配だよ」 「あ……」  しまった。 「——あ、ごめん。……翡翠の言う通り、疲れてるんだな、俺」  言葉の勢いに任せて、翡翠の頭に手を置いてしまった。ちょうど、幼子の頭を撫でるような感じ。  俺、どうかしてる。  翡翠はこういう事をされるのが嫌いだってわかってたのに—— 「本当にごめん、翡翠。……俺、もう寝るよ」 「あら? 志貴さん、お夕飯は——」 「ごめん、琥珀さん。今日はいい」  俯いてしまった翡翠を視界の端に収めて——俺はせっかく琥珀さんが用意してくれた夕食を取る事も無く、自室に向かった。  自室に戻ると、俺はベッドに倒れこんだ。  服を着たままだが……その時は翡翠か琥珀さんが起こしてくれるだろう。  ああ……疲れた。  また明日から、あの学校に行かなきゃならないのか……。  先輩も秋葉もアルクェイドも、もうちょっと仲良くなってくれないかなぁ—— ……。 …………。 ……………………。 …………………………………………。  ノックの音がした。  それで、目が覚める。 「——志貴さま、よろしいですか?」 「ああ……どうぞ」  まだおぼろげな眠気に脳みそを支配されつつ、それでもこの声は翡翠だな、と判断して、返事を返した。 「……失礼します」  少し間を置いて、翡翠が部屋に入ってくる。  ……そーいえば、着替えずに眠ってしまったんだっけ。  ん?…………あれ? でも寝巻きになってる。  ぐあ……ひょっとしてまた琥珀さんのお世話になったのか俺って!?  ……さ、最悪だ……。  遠野志貴。お前は十代折り返して数年経とうってのに、未だに着替えを他人にしてもらっているんだぞ……?  ……………………うああ! 俺ってひょっとしてダメ人間じゃ!?  いかん、いかんぞ遠野志貴。  八年ぶりにこの屋敷に戻ってきた時の自分を思い出せ。  お前はメイドさんに依存するような生活を送ってはいなかったはずだ。 「——志貴さま?」 「え? あ、ああ……なんだい、翡翠」  翡翠のひんやりとした、でも決して冷たくは無い声音が、今は有り難かった。  ……に、しても。いー加減着替えさせられてれば起きるよなぁ、普通。 「あの……志貴さま?」 「あ、ごめん。ちょっと自己嫌悪してた」  途端。  翡翠の顔が曇る。  ……どうやら、俺の言葉を深読みし過ぎているみたいだ。 「大した事じゃないから、翡翠が気に病む事じゃないよ。それで? 翡翠は何か用があったんだろ?」 「はい……その」  そこまで言うと、翡翠は顔を俯けてしまった。 「……翡翠?」  それから暫く、沈黙を噛み締めた後。  翡翠は口を開いた。 「あの、具体的な用事などは無いんです。ただ……志貴さまのご気分が優れなさそうだったので、その……。  志貴さまは以前、わたしが傍に居ると落ち着くと仰って下さいましたから。  ……もし、お邪魔でないようでしたら……お話のお相手くらいにはなるかと——」 「翡翠……」  いや、そんな風に顔を赤らめて俯かれると……なんだか俺が無理を言わせてるみたいに感じるんだけど。 「翡翠。気持ちは嬉しいんだけど……無理、してない?」 「いいえ」  本当に? と念を押して聞きたい所だが、答えはきっと一緒だろう。 「そっか。それじゃ、お言葉に甘えようかな」 「……はい」  翡翠は返事をすると、そのまま——俺のベッドの上に腰掛けた。 「——え?」 「何か?」 「い、いや……」  いつもの翡翠なら、その辺にある椅子に座るんだけどな……。  まぁ、確かにこの方が距離も近いし、喋りやすくはある。  ……いつもより距離が短い分、ちょっと、恥ずかしいけど。しかし—— 「……こんなトコ、秋葉に見つかったらただじゃ済まないな……」  琥珀さんあたりなら、笑ってちゃかしてくるんだろうけど。 「申し訳……ありません」 「だから、翡翠は悪くないんだって。今だって俺が頼んで、居てもらってるんだから」  翡翠がそばに居ると、翡翠と話していると、落ち着く——と言うのは、本当だ。  火照った額にひんやりとした手の平を当てられているような……そんな気分になる。 「いえ、違います」  また、従順なメイドの鑑かと思わせておいて、結構頑固だったりもする。 「違うって、何が」  いい加減、翡翠の自虐癖も直っていいと思うんだけど。  やっぱり、さま付け同様、そう簡単にはいかないらしい。 「違うんです。わたしがここに来たのは、志貴さまのお傍に居るのは……志貴さまの事を考えての事ではないのです。  ただ……ただ、わたしが志貴さまの傍に居たいから……志貴さまとお話したいから、ここにいるんです」 「——え」  ……何か、こう……凄いことを言われたような。 「ご迷惑ですか、志貴さま」 「え、あ……いや、そんなこと無い」 「本当ですか……?」  本当も何も—— 「ああ……その、何ていうか……嬉しいけど」 「志貴さま……」  それだけ呟くと、翡翠はベッドの上を這うように俺の傍に——って、ちょっと待て!? 「ひ、翡翠……!」 「もっと……志貴さまのお傍に、居させて下さい」  言って。  俺が抵抗する間も無く——と言っても、抵抗する気も失せてしまっていたけど——、温かい感触が俺を包み込む。  清涼感のようなものが感じられる言葉とは反対に……翡翠の体温は、彼女の優しさを示すかのようにとても、心地よい温かさだった。 「——へぇ、なるほどね」  ——ドクン。  声。  その、声。  翡翠が包んでいてくれる温かさとは対極で——だけど、耳に入る事を拒否できない。 「確か、志貴付きのメイドだったっけ。なるほど……ただのメイドってわけじゃなかったんだ」  厳しい表情で佇む、白い女。  窓枠の中の闇——そして闇天に浮かぶ月を背に、その女は金髪の間から紅い目に殺気を漲らせてそこに在る。 「あ、アルクェイド……!?」  何だってこう、いっつもいきなり現れるんだよ、お前は……? 「…………」  ——翡翠? 「そうそう、早く離れた方が身のためよ。志貴は、わたしの志貴なんだから」 「待てよ、アルクェイド。俺はいつからお前のものになったんだ」 「近いうちにそうするつもりだし」  こいつは……なんてこと、言いやがる。 「…………」  俺から離れて、さっきから黙ったままの翡翠の表情は——かなり厳しい。  心なしか、アルクェイドを睨んでいるようにも見えるのだが—— 「帰ってください。——いえ、消えてください」 「——」  刹那。  アルクェイドの瞳が凶く、鋭くなる。  ——ぐっ……!  久々に感じると……それこそ、その圧力だけで潰されそうになる、アルクェイドの殺気。  いや、これはその余波でしかない。殺気がまともに向けられた相手は——翡翠だ。 「ふざけた事を言ってくれるわね。たかだか召使いの分際で、主人の客を追い出そうっての?」 「客とはこのように窓から、誰の断りも無く忍び込んでくるような非常識な方の事までは指していません。……消えてください」  翡翠は、そんな殺気に気圧されるどころか、ますます険しい表所になって、白い吸血鬼に容赦の無い言葉を放つ。  ——ヤバい。  何がヤバいって、翡翠に抱き付かれていたところをアルクェイドに見られたって言うのもそうだし、そのアルクェイドが何だか本気で怒っている。加えて……何だか翡翠の様子がおかしい。  別に気が触れてるって訳じゃないけど、今日の翡翠は何だか……感情があり過ぎる、と言えばいいんだろうか。  ともかく、言葉遣いもどこか過激だ。 「——消えるのは、あんたよ。志貴は誰にも渡さない……」 「お、落ち着けアルクェイド——」  やばい。  アルクェイドの奴、本気だ。  翡翠の言葉をまともに受け取ってやがる……! 「志貴さまは、あなたの所有物ではありません」 「翡翠、逃げろっ!」  とにかく、翡翠をこの場から遠ざけた方がいい。  俺一人でなら、何とかこの状態のアルクェイドを宥める事も出来るだろう。  けど、翡翠が居ればそれも叶わない。  だってのに—— 「出来ません」 「何を言ってるんだ翡翠! 命令だ……とにかく、逃げるんだ」 「出来ません」 「翡翠!」  ——このままじゃ、殺されるんだぞ? 「志貴さまのお疲れの原因は……この方のせいではないのですか?」 「な——」  いや、確かにそれはそうかも知れないけど。  今はそんな事を言ってる場合じゃないだろう。  ——そんな俺の思考を表情から読み取ったのか。 「ならば……なお更です。消えてください」  近くまで歩み寄っていた白い吸血鬼に向き直り——翡翠はどこか、憎しみや怒りとも受け取れる響きのこもった言葉を投げ掛ける。  それが、止めの一言だった。  ——ざしゅっ。  …………赤が、散った。  窓からのぞく白い月。  その白を背景に、紅い花が舞ったのだ。  キレイだ——一瞬でもそう思った自分に、酷い殺意を覚えた。 「ひす——」  名を呼び終える前に、彼女は——床に転がった。  壊れた人形が、その場に打ち棄てられるように。 ——下僕の分際で、でしゃばるからよ。  聞こえた声に、俺は何の感情も浮かばなかった。 ——さぁ、志貴。わたしの志貴……  両腕を広げて待ち構えるそいつに、俺はベッドからゆっくり起き上がって、近づく。  起き上がる際に、必要な物を手にとる。 ——志貴。志貴……  何かを慈しむような、そんな声。  けど。  今の俺には、ただの雑音でしかなかった。 ——志貴……  抱かれるように、そいつの懐に納まって。  脳髄が壊れそうになるほど、凝視して。  俺は、そいつの「点」にナイフを突き立てた。 ——音も無く。  そいつは、消え失せた。 「……翡翠」  ナイフを放り棄てて、俺は倒れている翡翠に駆け寄った。 「ひすい」  返事をしてくれ。 「ヒスイ」  お願いだから。 「翡翠——!」 「翡翠……!」 ——さま。志貴さま。  ああ。  やっと返事をしてくれた。 「志貴さま? どうなされたのですか?」 「どうしたかじゃないだろ? 翡翠は……って、あれ? ここは……」 「志貴さまのお部屋です」  アルクェイドが居ない。それは当たり前かもしれないけど——  いや、その前に……部屋には血痕が全く無い。  俺の服も、着替えられてはいなかった。  それじゃあ…………あれは。 「——夢、か」  ……なんて、夢。  そうだ、よくよく考えれば馬鹿げてる。  アイツが間違ったって、人なんか殺すもんか。 ——本当か?  アイツはいい奴だ。人の血だって吸わない、いい吸血鬼なんだ。 ——本当に?  だから。黙ってくれ。 ——これからもそうであるという保証は?  ……黙れ。 「——志貴さま、どこか具合が悪いのですか?」 「……いや。大丈夫」  精神的にはどうかわからないが、取り敢えず身体は健康だ。 「そう言えば……翡翠はどうして、ここに?」  このまま、さっきの夢の繰り返し——そんな事を考えて、その思考を打ち棄てた。  縁起が悪いにも程がある。 「それは……その。見回りをしていたのですが、志貴さまの部屋の前を通りかかったところ……志貴さまがわたしを呼ばれていらしたのです。  ノックをしても、わたしの名を呼ぶだけで反応が無く……失礼とは思ったのですが、勝手にお部屋に入らせて頂きました」 「……なるほど」  つまり。  俺はあの夢の、倒れた翡翠に対する必死の呼び掛けを思いっきり寝言で言ってしまっていたわけですね。 「…………」  ……なんか、雰囲気が気まずいし。 「翡翠……俺、何かおかしなこと言ってた?」  ひょっとして、翡翠が俯いて居づらそうにしているのもそれが原因かもしれない。 「いえ。それはありませんでした。ただ……」 「ただ?」 「はい……ただ、余りに必死な呼び掛け方だったので……何事だったのだろうか、と」 「……そんなに?」  聞くと、翡翠は無言でコクリと頷いた。 「あ——う」  ……なんか、メチャクチャ恥ずかしい。  夢の内容を反芻すると、笑えはしないし恥ずかしがるなんてもってのほかだが——とにかく、夢だったわけだ。  そーすると、俺の必死の呼び掛けとかは滑稽以外の何物でもないワケで。 「と、とにかく、気にしなくていいよ。ちょっと夢見が悪かったんだ」  気恥ずかしさを誤魔化しつつ、翡翠に元の見回りに戻るように促す。 「ほら翡翠、またそんな顔をする。俺は大丈夫だから」 「……わかりました」  あまり解ってくれてはいなさそうだったが、翡翠は俺の具合が悪くない事を確認すると、部屋から出て元の見回りに戻っていった。 「……なんだって、あんな夢を見たんだろうな」  わからない。  俺は……例え無意識とはいえ、アイツの事をあんな風に考えていたというのだろうか?  いや、そんなことは無い。  確かに、アイツはとんでもない力を持っている。  でも、アイツはそれを抑える術を、遣うべき道を知っている。  そして、それを俺にも示してくれたんだ。  だから——  …………眠れない。  理由は簡単だった。あの夢だ。  あの、夢の中の紅い花が——俺の眠気を完膚なきまでに何処か遠くへ追い遣っていた。  別に眠れない事に関しては気にしてない。  多少、明日の起床時間が遅くなるだけの事だ。  最近は秋葉や翡翠も俺の寝起きに関しては半ば諦めているらしく、あまり厳しく言ってくる事は無かった。  それよりも深刻なのは—— 「……ヒマだ」  しかも、こんな時に限って時間の進み方がやけに遅かったりする。  暫くの間、窓の外を眺めていたりもしたが、それとていつまでも眺めていられるほどじゃない。 「ヒマそうだね、志貴」 「ああ……ヒマだな。——って、お前な……」  窓際に佇む、白い人影。  夜の黒に映える白は、天に浮かぶ真円の月に似て——孤独でありながら、どこか優しくて。  そして何より……キレイだった。  夢の中の彼女が、それこそ違う存在に思える程。  いや実際、夢なんだから……違うんだろうけど。 「いい加減、空き巣よろしく窓から入ってくるの、やめたらどうだ?」 「……いいの? だったら、玄関から呼び鈴押してお邪魔するけど」 「……う゛」  それも……困る。 「志貴公認だもんね。そっかそっか。それじゃ、これからは堂々と玄関から——」 「ごめんなさい。俺が悪かったです」  素直に頭を下げる。  はっきり言って、秋葉と翡翠、琥珀さんを全員敵に回す真似は出来ない。  この家での生活に於いて、それは自殺行為とイコールだ。 「じゃ、これからも今まで通りってコトで」 「……ああ」  これからも、今まで通り——か。  そうだよな。  これからだって今みたいに……暮らしていける。 「——志貴?」 「ん、ああ」 「志貴……なんかおかしいよ。何か悩んでたりしない?」  こいつの洞察力のレベルってのは、未だにわからない。  時々、そんな事もわからないのかと思うほど鈍い時もあれば、今みたいに要らない所で鋭かったりもする。  まぁ……どうせ今は眠れないしヒマだし。  ちょっと話に付き合ってもらおうか。 「ちょっとな。おかしな夢を見て——」  さっき見た夢の内容を話すと、アルクェイドはちょっと拗ねたような顔をして、 「ふーん。志貴ってば、わたしの事、そー言う風に見てたんだ」  そんな事を言ってきた。  まぁ……包み隠さず正直に話したから、そう言われても仕方ないんだけど。 「いや……だから、本当に無意識のレベルだと思うんだよ。  俺の意志が把握できる部分では、俺はお前の事を絶対、にそんな風に思ってない」  これは誓える。  神に対してか、悪魔(吸血鬼)に対してかは……わからないけど。  アルクェイドはというと、俺のそんな苦し紛れの弁解も笑顔で聞いてくれていた。 「でも、ある意味……志貴のわたしに対する見方は合ってるかな。すごいね、志貴って」 「え?」 「だから。志貴の夢の中のわたしはね、ひょっとしたら間違っていないかもしれないってコト」  そう言って、アルクェイドは一瞬、悲しげな表情をしたかと思うと、またすぐにニコリと微笑む。 「なに、言ってんだお前は。そんな……」  そんな奴じゃないだろう?  お前はいつだって、無邪気に微笑んでいて。いつだって—— 「ううん。だって、志貴を独占したいって言う気持ちは確かに、わたしの中に在るから。  でね、その気持ちは今のところ……どんなコトよりも最優先なんだよ」 「——」  頭が、真っ白になった。  そんなに、真っ直ぐに言われると……困る。  何が困るって——その、色々。 「だから、もし志貴が他の娘と仲良く話してたら。  例え故意じゃなくても、誰かと抱き合ってたら。  わたしは……志貴の中のわたしみたいな行動をとらないっていう保証は無いよ」 「…………」 「ダメだね、わたし。そんな事に使うための力じゃないのに」 「関係……無いだろ。力をどう遣うかなんて、その力を持ってる奴が決める事だ」  いつか、先生が俺に言ってくれた言葉。 「大丈夫。お前は間違ったってそんなコトするもんか」  そう思えるんだ。俺が、思うんだ。  だから、大丈夫。 「志貴…………。ううん、そんなこと無い」  不意に。  アルクェイドの、整った容姿が、金髪が揺れる。  それに合わせるかのように——いつもは宝石のような紅い瞳の光がその輝きを鈍らせていた。 「アルクェイド……?」 「志貴、あなたは……その翡翠って娘の事、どう思っているの?」 「な——」  あんまりにも唐突な質問で、言葉にならない。  だがアルクェイドはそんな事などお構いなしに続ける。 「シエルは、妹のコトは? 確か、メイドさんってもう一人いたよね? 琥珀……だったっけ? その人の事は? 志貴に眼鏡を渡した女だっている」  堰を切ったように、形の良い唇から言葉が溢れ出す。 「志貴に夢の内容を話された時、わたし……夢の中の自分の行動よりも、志貴が翡翠の事を心配していた事の方がずっと、腹が立った」 「…………アルク——」 「志貴は優しいよ。わたしなんかを……普通の女の子みたいに扱ってくれる。  出会いは、とんでもない出会い方だったけど」  言って、微かに苦笑する。  ……確かに、あの出会い方はこれ以上無いってくらい常識外れだった。  ただ……こいつは知らないかもしれないけど。  俺はアルクェイドを見た瞬間から、これ以上無いってくらいの出会いだと思っていたんだ。 「でも……志貴は優し過ぎるよ。誰に対してだって優しいの。  志貴の心にはたくさんの人たちがいる。それが、志貴のいいトコロだって、解ってる。  解ってるけど……わたしは、志貴の心の『唯一人』になりたい」  泣き出しそうな表情で語るアルクェイドは、夢の中の彼女とは余りにも対照的過ぎて……俺は自分を殴りつけてやりたかった。  こんな優しい奴が、あんな行動を取るわけ無いじゃないか。……だってのに、俺は夢で——無意識だとしても、こいつを、あんな風に見ていたってのか。 「…………」  どう応えればいい?  アルクェイドの、真っ直ぐな瞳に、俺はどう応えれば? 「志貴が悩むコト無いよ。志貴が誰にでも優しいのは志貴のワガママ。これは……わたしのワガママだから」  ——そう言って。  白い女性は……いつもと同じように微笑んだ。  ただ、その笑みは酷く——酷く悲しそうだった。  ムカついた。  何にムカついたかって——それは他ならない自分にだ。  こんな時にまで答えを出せない自分と……眼の前の女性。  その悲しそうな——けれどこれ以上ないってほどの微笑みを見て、他の事柄を全て忘れて、ただ純粋にキレイだと思ってしまっているコト。  俺の中に在る色んなモノ。  その全てがウザったかった。 「アルクェイド……俺は」  言いかけた俺を、白い何かが遮った。  ——温かかった。  ……遠い——とても遠い。  遠い昔に感じた温もりに、よく似ていた。 「そうやって、すぐ思い詰めちゃうのは……志貴の悪いトコだよ」 「アルクェイド……」 「志貴は、今の志貴のままでいいんだよ。そうじゃなかったら……志貴は、わたしの好きな志貴じゃなくなっちゃうから」  ——君は君の正しいと思う大人に——  いつか聞いた言葉が、温もりが。  とても……とても懐かしく感じて……俺はしばらくの間、アルクェイドの抱擁に身を任せていた。  それから。  何となく気恥ずかしいながらも、まだ眠気が襲ってこない俺は、アルクェイドと雑談を続けた。  喋る分に関して、アルクェイドの奴は何の異論もないらしく、嬉々として応じてくれた。  この辺、アルクェイドの思考の切り替えは早く、未だにさっきの言葉が頭をちらついて動揺している俺がバカに見えるくらい、あっけらかんと喋り掛けて来る。 「——そう言えば志貴ってさ、学校でわたしの事、『アルクェイドさん』って呼ぶよね?」 「だからどうした」 「何で?」 「何でって……他に呼び方無いだろ。まさか他の連中の前で呼び捨てにも出来ないし」  取り敢えず遠縁だと話してあるが、それだけで呼び捨てにできる理由にはなるまい。 「仮にもわたし、志貴の学校では先生なんだけど」 「仮ですらないだろうが、お前は」 「なによー。シエルの事はちゃんと『先輩』とか呼んでるクセに」 「そりゃ、シエル先輩は先輩だし……」  それに、何だか他の呼び方が見当たらない。  まー、それに関しては目の前のこいつも似たようなもんだけど。 「理由になってないじゃない。……ねぇ志貴、わたしのこと『先生』って呼んでみてよ」  やけにニコニコと要求してくる。  ……こいつの、こーいう表情は反則だと思う。  だって、こんな顔されたら……男としては抵抗する術がないじゃないか。  ある意味、『空想具現化』なんぞを使われるよりも性質(たち)が悪い。  それでも—— 「……だめ」 「えー、なんで?」  俺の方が聞きたい。  何だってアルクェイドはそんな呼び方に拘るんだ?  ……自問自答しても仕方ない。 「アルクェイド、何で呼び方に拘るんだよ?」  単刀直入に質問する。 「だって……」  狙っているのかいないのか——モジモジとした仕草で、上目遣いに見上げてくるアルクェイド。  ——って、こんな些細な事で心乱してどうするんだ、俺わ。 「シエルだけ、ずるい」  ……よーするに。  シエル先輩だけが『先輩』という特別な呼ばれ方をしているのが羨ましい、と。  うーむ。  解るような、解らないような。 「ね、志貴。お願い」 「……だめ」  それでも、俺は断った。  自分でもどうしてここまで拘るのか、わからない…………いや、そうか。  唐突に、思い当たる。  今まで特に意識もしていなかった事。  多分……俺にとっての「先生」は、あの女性だけなんだ。  ……まだ小さかった俺に。  この「眼」に押し潰されそうな、幼かった俺に、「眼」のコト、そして生きる事を教えてくれた。  ——だから、か。 「——志貴。今、誰のコト、考えてたの?」 「え?」  ……まずい。  何だってこう、要らんコトばっかりに鋭いんだ、こいつは……!? 「誰の事、考えてたの」 「誰、って……」 「教えて」 「いや、昔の事だよ、昔の」 「……教えなさい」  アルクェイドさん……顔が怖いです。 「だーかーら。 誰の事も考えてないって——」 「うそだー! 私と喋ってるのに絶対、私以外の誰かのこと考えてたー!」  ……ああ、もう。  こんな事してたら琥珀さんや翡翠はおろか、秋葉にまで感づかれるじゃないか……! 「とにかく落ち着けアルクェイド。これ以上騒ぐと厄介な事に——」 「じゃあ教えて」 「だからお前の指摘は違うんだって——」 「じゃあ騒いでやる。わーわーわー! ——むぐっ」  とんでもない事をしだす阿呆の口を慌てて塞ぐ。 「いー加減にしろお前……! 叩き出すぞ!?」 「むーむーむー!」  だー! くすぐったいって……!  ああ、くそっ。  何かいつの間にか泥沼だ。  ——ふと。 ——その『落とし穴』とか言うのに落っこちちゃった時点で、その方の進むべき道はある程度決まっちゃってると思います。  今日の琥珀さんの言葉が脳裏を過ぎった。  何で今頃……?  と、思った矢先。 「——兄さん」  声には、あからさまな殺意が宿っていた。  どのくらい凄いかって言うと、昼休みの時の秋葉のそれを仮に「一」とするなら……今の声は、数値では表せない。  …………なるほど。  よーくわかりましたよ、琥珀さん。 「……よぉ、秋葉」 「むーむーむー!」 「…………」  ……なんか、弁解の出来ない状況だったり。 「——ぷはっ……なんだ、妹か」  気勢の逸れた俺の手から逃れたアルクェイドは、呑気にそんなコメントをしやがった。 「…………!」  秋葉の肩が、傍目に見て震えている。  と。  俺の傍にいるアルクェイドの顔が邪悪に歪んだ。  ……イヤな予感が、ヒシヒシと感じられる。  その予想はほぼ予知といっても過言ではなかった。  ただ、抗う術がない。  俺はただ、目の前で展開されていく、ある意味悪夢を視界に収める事しか出来なかった。 「もう……志貴ったら、大胆なんだから」  起爆剤は、白い悪魔のその一言。  ——ブチッ  ……という音が、聞こえたような気がした。 「この——破廉恥吸血鬼がっ——!!!!」 「ブラコンだって十分破廉恥じゃん」 「……殺すっ」 「無理な事は口走らない方がいいわよー」  ……………………さっ、寝よう寝よう。  きっと途中で琥珀さんあたりが揮発性の睡眠薬か何かで止めてくれるだろうし。 「ちょっと志貴、わたしとあなたの馴れ初めを話してやってよ」 「兄さん……!?」  ……あーもう。 「志貴ってば、凄かったもんね」 「に、兄さん……嘘だと言って下さい!」 「嘘に決まってるだろ」 「そんな事、素直に信じられません!」 「じゃあ、どうしろって言うんだよっ!?」 「志貴ぃ、続きしようよ」 「兄さん……あなたを殺して、わたしも死にます」 「まてまてまてっ!? 早まるな秋葉っ!?」 「死ぬなら妹一人で死んでね。迷惑だし」 「このっ……! 減らず口が……!」 「……!」 「——! ————!」 「…………! ——!」 「〜〜! ——!? …………!」  ……この不毛な答弁は翌朝、翡翠が俺の部屋に訪れる直前まで——途中、「実力行使」も交えて——延々と、繰り広げられる羽目になった。  文臣さん、啓子さん、都古ちゃん。……有間に帰ってもいいですか?  ——つーか、帰らせてください。いや、ホントニ。  ……ちなみに。  これから俺が、何故か夜毎こうやって考えさせられる状況に陥る羽目になるのを知るのは、もうちょっと後の事である。  ——わからない。  何で、こんなことになったんだろう? 「————はぁ」  誰にともつかない溜息。  空に浮かぶ月だけが、そんな俺のやり切れない心情を察するかのように淡く、淡く浮かんでいた。  <END> 「(じぃ〜)……あらあら、志貴さんモテモテですね」 「姉さん……やっぱり、これはダメだと思います」 「なに言ってるの翡翠ちゃん。翡翠ちゃんだって興味津々で見ていたじゃないですか」 「…………(真っ赤)」 「しかし、監視カメラとは……遠野君の生活って、本当に遠野家の女性三人に掌握されてしまってるんですね」 「あら、今回学校でしか出番がなかったシエルさんじゃないですか(にこにこ)」 「(ぐさっ)いえいえ、わたしと大して出番の差がなかった琥珀さん。  ……取り敢えず、このシナリオを書いた作者さんの意向ですから。(もっとも、後で半殺しですけどね……ふふふ)」 「……姉さん、シエル様……二人とも、怖い(ちょっと引き気味)」 「さて、シエルさんはこれからどうしますか?」 「はい? どー言う意味ですか、それ」 「ええ。今、志貴さんの部屋で、血で血を洗うデスマッチが繰り広げられてるワケですが、以降、シエルさんも参加するんですか?」 「うーん……どーでしょうか? 解らないです」 「でも、参加しないと志貴さん持っていかれちゃいますよ?」 「参加します」 「シエル様……早い」 「志貴さん、これからますます大変ですねー」 「姉さん、絶対わかってて嗾けてる……」 「いえいえ、そんなことないですよー」  間。 「ちなみに……あなた達はどーなんですか?」 「わたしですか? 翡翠ちゃんはともかく……わたしなど出る幕ではありませんからねー」 「でも姉さん、その後ろの危なげな薬品の瓶はいったい(ごすっ)…………」 「あらあら翡翠ちゃん、こんな所で居眠りしちゃダメですよー」 「…………」 「どうしました? シエルさん」 「いえ、何でもありません(やっぱり、遠野君って過酷な生活環境送ってるんですね……)」 「さて、そろそろ締めましょうか。悪戯に長いと見る方も疲れるでしょうし、翡翠ちゃんも寝ちゃいましたしね」 「そうですね。そうしましょうか(地に伏している翡翠は敢えて気にしない)」 「では、このシナリオに眼を通して下さった皆様方!」 「ありがとう……ございました(クラクラ)」 「(びくっ)翡翠さん、もう復活したんですか」 「……はい。早く目を覚まさないと——」 「翡翠ちゃん」 「い、いえ。何でもありません(びくびく)」 「翡翠さん……いったい何があるんですか?」 「シエルさん。世の中、知らない方がいい事もありますよー(にこにこ)」 「は……はい(うう……なんか怖いです)」 「では——今度こそ、終わりです(ペコリ)」  <なんか謎っぽいもの(?)を残しつつ終。>